食べる、少年。

好きな物を「好きだ」というためのブログ

落ちこぼれない時代の教科書--『NARUTO』

 

NARUTO -ナルト- 1 (ジャンプ・コミックス)

NARUTO -ナルト- 1 (ジャンプ・コミックス)

 

 

NARUTO』という漫画がある。週刊少年ジャンプで、かつて世界一の漫画『ONE PIECE』と肩を並べ連載されていた漫画だ。かくいう僕も1人の少年として、小学校からだいぶお世話になった。自分のルーツを振り返るという意味で少し思い出しながら、感想を書きたいと思う。

 

あらすじ

火の国にある忍の隠れ里「木の葉の里」を襲撃した九尾の妖狐。当時の里の長、4代目火影は、自らの命を代償にその日に生まれた1人の男の子に九尾を封印した。数年後、恐怖と嫌悪の象徴である九尾を体に宿すその少年は、里の衆から疎まれながらも懸命に生きていた。誰にも必要とされていないと自覚しながらも、自らの存在を主張し続ける。そんな彼はいつしか里一番の忍である「火影」を夢見るようになった。

 

喜劇を演じる悲劇

この物語の主人公「うずまき ナルト 」は悲劇の主人公だ。産まれながらにして「化け物」の烙印を押されたナルト。彼は理屈のない味方である親も件の事件で失った孤児だ。さらに「里」という部落的な閉じたコミュニティは、彼を支えるどころか、むしろ迫害の対象にする。彼は愛を知らなかった。当時小学生だった僕は、ナルトの寂しそうな表情を見た時、ぐっと物語に引き込まれたことを今でも覚えている。動物が一番最初に痛いという感覚を覚えるように、まだまだ未分化だった僕にも、彼の「(心が)痛い」ということは伝わったのだ。

 

物語はナルトのことを認めてくれる1人の大人が現れるところから始まる。イタズラをしてクラスでお調子者を演じることでしか自らの価値を示せなかった子供の、初めての自己肯定。それがどれほど大切なことだったのかは、当時の僕にはわからなかった。ただただひたすらに「眩しい」と思わされた。

月日が経ち、僕も大人になった。今振り返って思うのは、あの時の感情には「羨ましい」という言葉が一番合っているだろうということだ。自分のために命をかけてくれる存在。そんな他人がもし現れたなら、それだけで生きる価値がある僕は思う。

 

くそったれ

泥にまみれながら、血反吐を吐きながら、ナルトは幾たびの困難に立ち向かった。そんな姿に敵は驚愕したものだ。その度に強敵たちがする「なぜそうまでして立ち上がるのか」という問い。それに彼はいつもこう返した。

 

落ちこぼれだと言われたからだ。

 

この言葉に何度絶叫し、そして胸に突き刺さったことか。

僕らは知っている。彼が何と呼ばれ育ってきたのか。どれほど努力したのか。そんな彼が言ってしまうのだ、自分のことを「落ちこぼれ」だと。この言葉はかっこいいだけではない。ナルトが言う前向きなセリフに僕ら読者が歓喜するたびに、ブーメランの様に読者の胸に返ってくる。「お前はナルトほど努力しているのか」と。そんな敗北感が僕の胸に楔を打ち続けた。

 

お陰で僕は正論ばかりを口にするお子様脳の人間になってしまった。社会は不揃いな価値観が寄り添い合い成り立っている場所だ。意思は求められても、意地は要らない。譲れないものなんか持ち込めば、たちまちそれは、魚の骨みたいに吐き出されてしまう。あぁ生き辛い。ただ、そんな時ふと思うのだ。ナルトも一巻の頃はこんな感じだったのかなと。並列回路で強固に結ばれた同調力の前で異物認定されるってこんな感じなのかなと。

社会の壁に直面した僕は、自分の人生で自分が感動した物を信じてみることにした。つまり、ナルトのように足掻き続けてみることにした。『NARUTO』を買い始めて12年、社会人になってようやくガキの頃のナルトに肩を並べられるところまで来たように思う。

 

足掻き続けていれば、ナルトのように前に進めるのか。その答えはまだ僕にはない。でも、ナルトほどではないが、僕にもこんな自分を理解してくれる人が2,3人はできた。それだけでも恵まれているなと思うのが、僕がナルトから影響を受けたのはそれだけではない。里一番の忍を目指すという野心も引き継いでいる。僕も自分の「火影」を目指す。

 

僕はこれからもナルトに恥じないような人生を生きていく。子供の頃に憧れたヒーローを目指し続けるとどんな人間になるのか。壮大な実験は始まったばかりなのである。

 

 

正直、ネットに公開するような話ではないのだけど、何となく書きたくなったので書いてみた。誰も読まないだろうけど、もし読んでくれた人がいるなら、お目汚し失礼しました。