食べる、少年。

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冒険の終わり-『狼と香辛料』を読んで

 

 

狼と香辛料〈17〉Epilogue (電撃文庫)

狼と香辛料〈17〉Epilogue (電撃文庫)

 

 

また1つ僕の中で物語が終わった。昨日までの連続していた日々と、明確に異なる今日。この感覚を「卒業」と呼ばずになんと呼ぶのか。

 

 『狼と香辛料』は行商人のロレンスと狼の化身であり豊穣の神として崇められていたホロとの出会いから始まる。舞台は中世ヨーロッパを思わせる荒涼とした北の大地、教会が未だ絶大な権力を持っていた時代に主神と異なる神ホロと旅をするという冒険譚だ。

 少女のような容姿を借りながら数百年を生きるホロ、荷馬車に揺られながら彼女とするくすぐったい掛け合いを通して、金を稼ぐことしか頭になかったロレンスは緩やかに溶けていく。その過程に当時の僕は何度湿ったため息を漏らしたか分からない。

 

ロレンスとホロの出会いは、僕とラノベやアニメとの出会いでもあった。2人の関係が温められていくのと合わせて僕のライトノベルやアニメへの熱も熱くなった。僕の原点とも言える作品だ。

 

 そんな指折りで新刊を待っていたこの作品が終わると聞いて、絶望した日を今でも覚えている。最終巻の発売日、購入する手は震えていた。怖くて読めなかった。「いつかその時が来たら読もう」そう本棚にしまって当時は平静を装おうと必死だった。

 

 そんな『狼と香辛料』の最終巻をこの度手に取った。特別な理由はない。「いつか読まなくては」と思い続けていたせいだろうか、本棚から取り出したのは驚くほど自然な動作だった気がする。裏表紙をめくると奥付には6年前の発行日が載っていた。

 

 そこに書かれ描かれていたのは冒険の終わりだった。

 

 行商人だったロレンスの夢は「自分の店を持つこと」。雨の日も雪の日も馬の尻を眺め揺られ、立ち寄る街ではよそ者扱いされる。そんな行商人が抱く普通の夢だ。人外のホロとの旅はいつも綱渡りだった。破産の危機なんかは当たり前、時にロレンスは天秤の一方に自らの命をのせることもあった。そうまでして蓄えた金と人脈を元に、最終巻で彼は店を持ったのだ。

 

 そんな彼の嬉しそうな描写に涙がこぼれた。それは旧友が夢を叶えた感動と、終わりを突きつけられた悲しさからだ。僕らは知っている。冒険はいつの世も持たざる者の特権だということを。

 

 家を持った。

もう寒空の下で毛布に包まる日は来ないだろう。

 

街に住んだ。

もう騙されまいと疑心暗鬼になることもないだろう。

 

 店を持った。

もう命を対価に商いをすることもないだろう。

 

 そんな幕引きに、友人としては感激し、そしてファンとしては涙した。「止まない雨はないし、明けない夜もない。だから、終わらない冒険もないのだ」そうホロにからかわれているようだった。

 

 最後の2p、店の看板を眺め「こんなに嬉しいことはない」と胸を張る主人公に、ホロは新たな命の誕生を示唆する。それに驚愕する主人公に僕はひとり拳を握った。ロレンスの冒険は終わったのかもしれない。でも彼の「旅」は続いていく。そんな作者のメッセージを受け取ったからだ。

 

 幸か不幸か僕にはまだ守らなければならないものはない。時代が違う、立場が違う、物語と現実は違う、だから命をかけるとまでは言えない。でも「冒険」しない理由はない。

 

 かつてこの本に魅了された1人として言いたい。

 

 「冒険の続きは任せておけ」

 

 体の真ん中が熱くなった。

落ちこぼれない時代の教科書--『NARUTO』

 

NARUTO -ナルト- 1 (ジャンプ・コミックス)

NARUTO -ナルト- 1 (ジャンプ・コミックス)

 

 

NARUTO』という漫画がある。週刊少年ジャンプで、かつて世界一の漫画『ONE PIECE』と肩を並べ連載されていた漫画だ。かくいう僕も1人の少年として、小学校からだいぶお世話になった。自分のルーツを振り返るという意味で少し思い出しながら、感想を書きたいと思う。

 

あらすじ

火の国にある忍の隠れ里「木の葉の里」を襲撃した九尾の妖狐。当時の里の長、4代目火影は、自らの命を代償にその日に生まれた1人の男の子に九尾を封印した。数年後、恐怖と嫌悪の象徴である九尾を体に宿すその少年は、里の衆から疎まれながらも懸命に生きていた。誰にも必要とされていないと自覚しながらも、自らの存在を主張し続ける。そんな彼はいつしか里一番の忍である「火影」を夢見るようになった。

 

喜劇を演じる悲劇

この物語の主人公「うずまき ナルト 」は悲劇の主人公だ。産まれながらにして「化け物」の烙印を押されたナルト。彼は理屈のない味方である親も件の事件で失った孤児だ。さらに「里」という部落的な閉じたコミュニティは、彼を支えるどころか、むしろ迫害の対象にする。彼は愛を知らなかった。当時小学生だった僕は、ナルトの寂しそうな表情を見た時、ぐっと物語に引き込まれたことを今でも覚えている。動物が一番最初に痛いという感覚を覚えるように、まだまだ未分化だった僕にも、彼の「(心が)痛い」ということは伝わったのだ。

 

物語はナルトのことを認めてくれる1人の大人が現れるところから始まる。イタズラをしてクラスでお調子者を演じることでしか自らの価値を示せなかった子供の、初めての自己肯定。それがどれほど大切なことだったのかは、当時の僕にはわからなかった。ただただひたすらに「眩しい」と思わされた。

月日が経ち、僕も大人になった。今振り返って思うのは、あの時の感情には「羨ましい」という言葉が一番合っているだろうということだ。自分のために命をかけてくれる存在。そんな他人がもし現れたなら、それだけで生きる価値がある僕は思う。

 

くそったれ

泥にまみれながら、血反吐を吐きながら、ナルトは幾たびの困難に立ち向かった。そんな姿に敵は驚愕したものだ。その度に強敵たちがする「なぜそうまでして立ち上がるのか」という問い。それに彼はいつもこう返した。

 

落ちこぼれだと言われたからだ。

 

この言葉に何度絶叫し、そして胸に突き刺さったことか。

僕らは知っている。彼が何と呼ばれ育ってきたのか。どれほど努力したのか。そんな彼が言ってしまうのだ、自分のことを「落ちこぼれ」だと。この言葉はかっこいいだけではない。ナルトが言う前向きなセリフに僕ら読者が歓喜するたびに、ブーメランの様に読者の胸に返ってくる。「お前はナルトほど努力しているのか」と。そんな敗北感が僕の胸に楔を打ち続けた。

 

お陰で僕は正論ばかりを口にするお子様脳の人間になってしまった。社会は不揃いな価値観が寄り添い合い成り立っている場所だ。意思は求められても、意地は要らない。譲れないものなんか持ち込めば、たちまちそれは、魚の骨みたいに吐き出されてしまう。あぁ生き辛い。ただ、そんな時ふと思うのだ。ナルトも一巻の頃はこんな感じだったのかなと。並列回路で強固に結ばれた同調力の前で異物認定されるってこんな感じなのかなと。

社会の壁に直面した僕は、自分の人生で自分が感動した物を信じてみることにした。つまり、ナルトのように足掻き続けてみることにした。『NARUTO』を買い始めて12年、社会人になってようやくガキの頃のナルトに肩を並べられるところまで来たように思う。

 

足掻き続けていれば、ナルトのように前に進めるのか。その答えはまだ僕にはない。でも、ナルトほどではないが、僕にもこんな自分を理解してくれる人が2,3人はできた。それだけでも恵まれているなと思うのが、僕がナルトから影響を受けたのはそれだけではない。里一番の忍を目指すという野心も引き継いでいる。僕も自分の「火影」を目指す。

 

僕はこれからもナルトに恥じないような人生を生きていく。子供の頃に憧れたヒーローを目指し続けるとどんな人間になるのか。壮大な実験は始まったばかりなのである。

 

 

正直、ネットに公開するような話ではないのだけど、何となく書きたくなったので書いてみた。誰も読まないだろうけど、もし読んでくれた人がいるなら、お目汚し失礼しました。

 

医者が臥す恐怖という病__『フラジャイル』を読んだ感想

以前より気になっていた『フラジャイル』を読んだので感想を少し書く。

 

はじめにはっきり言わせてもらうとすると、僕は医療系漫画が嫌いである。漫画家が自分で生み出したキャラクターに病気という十字架を背負わせて、そのキャラクターの家族や周辺人物を不幸にさせることで飯の種にしているという構図をイマイチ僕の正義感が許せずにいるためである。

 

だが、そんな僕にも『フラジャイル』はとても楽しく読めた。いや、むしろここ最近出会った漫画では一番かもしれない。

 

フラジャイルを満たしている感情は〈恐怖〉である。

物語は、ヒロインである宮崎医師がカンファレンス(大きな総合病院で行われる患者の病気の検討会のようなもの)で自分の意見を言えないところから始まる。カンファレンスでは症状と基礎的な検査の結果が読み上げられ、それぞれの専門の先生が自分らの所見を述べることで、今後の治療方針や高度検査の必要性が検討されていく。

早く自分の仕事に戻りたい医師たち。金にならない検査は省きたい経営陣とそれに頭を垂れる中間管理職の長。舞台となる病院ではその他の病院がそうであるかのように、カンファは流れ作業でこなされていく。

 

とある患者の今後の方針に疑問を抱いた宮崎医師は意見を言おうとするも、周囲の同調力に恐怖し発言を躊躇う。だが、そんな時、それをズバリと指摘する1人の医者が現れるのだ。それが主人公である「岸京一郎」である。

 

自分の仕事にプライドを持ち、誰よりも患者のためを思う岸は、なあなあという日本人にありがちな決断を許さない。他の医師と対立することなんて気にしないのである。そんな彼は、居心地のいいぬるま湯に一石を投じてしまう存在として、一部の良心を持つ医者を除いて、疎まれ恐怖されている。

 

時に心ない医者によって自分の所見が軽んじられることがあれば、「脅し」「取引」、彼はどんな手でも使う。出世欲はなく、病理医(あらゆる診療科にまたがり、検査結果から可能性のある病気を担当医に伝える診断医)という不可侵なポストにいるため、他の医者も邪険にできない。だからこそ彼の振る舞いは目をつぶられているのだ。無鉄砲に他人の弱みに付け込むその姿は、まるでヤクザのようだ。

ヤクザ医師「岸京一郎」が、他の医師の不正や蒙昧なプライドを一刀両断していく姿は見ていて気持ちがいい。医療という最先端の舞台に姿を変え、時代劇の普遍のおもしろさは新たな可能性を示す。

 

では、『フラジャイル』が時代劇的であるというのなら、その「正義」はどこにあるのであろうか。時代劇において「正義」は身分によって保証される。越後屋は将軍家に咎められるからこそ屈服し、視聴者は納得するのだ。

僕は『フラジャイル』の正義は、岸京一郎が顕微鏡に向かう姿にあると思う。作中、基本的に彼は顕微鏡に向かっている。その仕事に対する真摯な姿勢が、彼に正義を持たせるのだ。もしかしたらその姿は「職人」と呼ぶことができるかもしれない。自分の仕事に誇りを持ちそれを害することは決してしない「職人」、失う物がなく何をしてくるか分からない「ヤクザ」とは対極の存在だ。岸の職人としての〈信頼〉がヤクザの〈恐怖〉を相殺する。登場人物たちは知らないけれど、読者は知っているという情報の差異。「君が正しいことは僕らは分かっているよ」という感覚が、敵の愚かさを際立たせ物語のカタルシスを深めていく。だからこそ、読者は彼の破天荒な行動を安心して見守り、そして一緒にハラハラできるのだ。

 

人間の最大の「恐怖」は「死」だと僕は思う。「死」を覗き診る医師たちもまた、「恐怖」に覗かれる。それを紛らわせるために、責任を取らず心の負担を減らすために、いつしか「同調」という空気が病院を支配する。毒を持って毒を制す。恐怖を打ち破るための恐怖、それこそが「岸京一郎」その人なのだ。逆境に居ても意思を譲らぬことを意地と呼ぶのであれば、『フラジャイル』に僕は、少年のような、医師の意地を見た。

ネイチャー番組信者は良い人間なのか

「シマウマのしま模様は、肉食動物に対するカムフラージュ」は誤りだった! 最新のしま模様の有力説とは!? #ダーウィンが来た
https://togetter.com/li/1157260

 

という記事がTwitterで話題になっていた。僕はこの番組を見たわけでもないし、この番組自体を批評したいわけでもないんだけど、ふと思うことがあったので少しまとめておく。

 

この前に福島の秘湯に行った。そこは無人駅からさらにローカルバスで2時間ほど山に入っていくという正真正銘の秘湯だ。

 

そこのボロ宿に一晩泊まった僕は、宿番の爺さんの(政治批判から年金の話まで)お腹いっぱい愚痴を聞かされた。大体の話は聞き流してしまったのだけれど、その中でどうも引っかかっている一言があった。

 

「俺はもうNHKも見るのをやめた。時々見るのは動物番組くらいだな。」という言葉だ。

 

この言葉がどうして引っかかったのかというと、このセリフを聞いたのはその日が初めてではなかったからだ。このセリフは僕の周りからも結構聞く。

 

曰く、「規制ばかりのテレビがつまらない」「やらせに飽きた」「バライティーは同じことの繰り返し」…etc

 

バライティー好きで、学生の頃は一日12時間くらいバライティーを見ていた僕が、「昨日見たバライティー番組」の話をすると、時たまピシャリと【テレビ見ない宣言】をされる。それも「テレビ見てるやつはバカだ」と言わんばかりの口調で。

 

そういう人に限って、ヒストリアだとかダーウィンみたいなサイエンス番組だけは肯定したりすることが多い。

 

なんだかなぁ(´-`)

 

いつもこの話になるとため息がしたくなる。

 

僕は、きっとそういう人は「損をする」という感覚が敏感な人なんだと思う。

 

人間は損と得を同じ天秤で測れない生き物だと聞いたことがある。一万円をどこかで落としてしまった後、一万円を拾っても損した気持ちになるそうだ。どこかの大学の研究によると、損の感情は、得の感情より、2倍〜2.5倍強いという。

 

バライティー番組を見ても何も残らない。サイエンス番組なら知識ないしは知見が身につく。何も残らないバライティーは時間の無駄だ。

 

そう考えれば、確かに損しないという感覚が無意識に働いてもおかしくない。

 

でも、時たま腹をかかえて笑っちゃうバライティーもあるんだけどね。

 

僕は、「バライティーだから」って切り捨てないで、面白いものは面白いと正当に評価できる人間になりたいなと思う。でも、こんなこと言ってても僕自身以外と無駄なこと、嫌がったりしちゃうんだよな…

 

結果、自省の文書になってしまいました。

 

『Dr.STONE』が『進撃の巨人』を駆逐する

Dr.STONE 1 (ジャンプコミックス)

Dr.STONE 1 (ジャンプコミックス)

 

 

 2017年3月から週刊少年ジャンプで連載されている『Dr.STONE』(原作:稲垣理一郎、作画:Boichi )という作品は、近年の漫画・アニメを代表する一作だと思う。ストーリーが面白いというのは当然ながら、僕にはその計算去れ尽くした展開に深い共感を得ざるを得ないからだ。

 

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