食べる、少年。

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医者が臥す恐怖という病__『フラジャイル』を読んだ感想

以前より気になっていた『フラジャイル』を読んだので感想を少し書く。

 

はじめにはっきり言わせてもらうとすると、僕は医療系漫画が嫌いである。漫画家が自分で生み出したキャラクターに病気という十字架を背負わせて、そのキャラクターの家族や周辺人物を不幸にさせることで飯の種にしているという構図をイマイチ僕の正義感が許せずにいるためである。

 

だが、そんな僕にも『フラジャイル』はとても楽しく読めた。いや、むしろここ最近出会った漫画では一番かもしれない。

 

フラジャイルを満たしている感情は〈恐怖〉である。

物語は、ヒロインである宮崎医師がカンファレンス(大きな総合病院で行われる患者の病気の検討会のようなもの)で自分の意見を言えないところから始まる。カンファレンスでは症状と基礎的な検査の結果が読み上げられ、それぞれの専門の先生が自分らの所見を述べることで、今後の治療方針や高度検査の必要性が検討されていく。

早く自分の仕事に戻りたい医師たち。金にならない検査は省きたい経営陣とそれに頭を垂れる中間管理職の長。舞台となる病院ではその他の病院がそうであるかのように、カンファは流れ作業でこなされていく。

 

とある患者の今後の方針に疑問を抱いた宮崎医師は意見を言おうとするも、周囲の同調力に恐怖し発言を躊躇う。だが、そんな時、それをズバリと指摘する1人の医者が現れるのだ。それが主人公である「岸京一郎」である。

 

自分の仕事にプライドを持ち、誰よりも患者のためを思う岸は、なあなあという日本人にありがちな決断を許さない。他の医師と対立することなんて気にしないのである。そんな彼は、居心地のいいぬるま湯に一石を投じてしまう存在として、一部の良心を持つ医者を除いて、疎まれ恐怖されている。

 

時に心ない医者によって自分の所見が軽んじられることがあれば、「脅し」「取引」、彼はどんな手でも使う。出世欲はなく、病理医(あらゆる診療科にまたがり、検査結果から可能性のある病気を担当医に伝える診断医)という不可侵なポストにいるため、他の医者も邪険にできない。だからこそ彼の振る舞いは目をつぶられているのだ。無鉄砲に他人の弱みに付け込むその姿は、まるでヤクザのようだ。

ヤクザ医師「岸京一郎」が、他の医師の不正や蒙昧なプライドを一刀両断していく姿は見ていて気持ちがいい。医療という最先端の舞台に姿を変え、時代劇の普遍のおもしろさは新たな可能性を示す。

 

では、『フラジャイル』が時代劇的であるというのなら、その「正義」はどこにあるのであろうか。時代劇において「正義」は身分によって保証される。越後屋は将軍家に咎められるからこそ屈服し、視聴者は納得するのだ。

僕は『フラジャイル』の正義は、岸京一郎が顕微鏡に向かう姿にあると思う。作中、基本的に彼は顕微鏡に向かっている。その仕事に対する真摯な姿勢が、彼に正義を持たせるのだ。もしかしたらその姿は「職人」と呼ぶことができるかもしれない。自分の仕事に誇りを持ちそれを害することは決してしない「職人」、失う物がなく何をしてくるか分からない「ヤクザ」とは対極の存在だ。岸の職人としての〈信頼〉がヤクザの〈恐怖〉を相殺する。登場人物たちは知らないけれど、読者は知っているという情報の差異。「君が正しいことは僕らは分かっているよ」という感覚が、敵の愚かさを際立たせ物語のカタルシスを深めていく。だからこそ、読者は彼の破天荒な行動を安心して見守り、そして一緒にハラハラできるのだ。

 

人間の最大の「恐怖」は「死」だと僕は思う。「死」を覗き診る医師たちもまた、「恐怖」に覗かれる。それを紛らわせるために、責任を取らず心の負担を減らすために、いつしか「同調」という空気が病院を支配する。毒を持って毒を制す。恐怖を打ち破るための恐怖、それこそが「岸京一郎」その人なのだ。逆境に居ても意思を譲らぬことを意地と呼ぶのであれば、『フラジャイル』に僕は、少年のような、医師の意地を見た。